ノソノソ宣言
今までも「鈍足のマラソンランナー」でしたし、最近は更に遅く「牛歩のマラソンランナー」と成っていましたが、今後はそれを更に徹底するために「ノソノソ宣言」を出して、皆さんのご理解を得たいと思います。
オンデマンド選書で2つの作品を出したので、例によって悪い癖が出て、『許萬元のヘーゲル研究』をサット片付けて、その後に『精神現象学の序言と序論』という題で適当な解説を付けて、「第2版」への批判ないし不満に応えよう、と考えて仕事に掛かりました。
そうしたら、覿面に過労になり、体調を崩しました。仕事は行き詰まりました。
その上、『許萬元のヘーゲル研究』については読者が、私の知らない論文を探してきてくださいました。これは「嬉しい悲鳴」でした。内容的には、大体中程度の問題しかありませんが、1つだけ大問題があります。
それは許萬元が論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」の中で論じています「アリストテレスに由来する質料原理と形相原理」というものは、私が論文「実体と機能」でテーマとしている事柄と同じ問題を考えているのだと思いますが、それは更に廣松が「物象化」という言葉で捉えているのとも同対象ではないか、と気付いたことです。
しかるに、私は許萬元はほとんどすべて、廣松はほんの少し読んでいますが、許萬元は私の物は密かに読んでいると思いますが、廣松は、多分、読んでいないと思います。では、廣松はと考えてみますと、我々の物は、多分、ぜんぜん読んでいないと思います。
ついでですので、廣松と私との接点についてお話ししておきますと、それは2回あったと思います。最初は、私が本郷の哲学科に移った年です。60年安保闘争の真っ最中でした。ですから1960年の春のことです。何かの時に、当時、大学院生だった(と思います)廣松が研究室の中で我々の議論に加わったのだと思います。「君はマルクスのコレコレ(論文名は覚えていません)を知っているか!」と怒鳴りつけたのです。私は何もいえませんでした。友達は私に対して、「もの凄い論敵を持ったね」と言ってくれました。
2回目は、日本哲学会の総会で、私が「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」という題で発表をした日だったと思います。ですから、1971年の5月だったと思います。その年はたまた総会が東京で開かれたのです。発表が終わって、許萬元さんと二人で控え室でくつろいでいる時に、廣松が横を通りかかりました。そして、立ち止まって、「こちらが許萬元さんで、こちらが牧野さんですね」と、我々の名前を知っていることを証明して、通り過ぎました。以上です。
話を元に戻して、この同一の対象ないし問題についてのこの三人の理解の仕方はどう違うか、それと関連して用語の違いをどう整理して、正しい用語をどう提案するか、という問題が出てきます。これはかなりの問題です。しかし、ここまで来て逃げるわけには行きません。まず許萬元の言う「アリストテレスにおける質料と形相」が、本当にアリストテレスにあるのかが問題です。哲学辞典には「質料は材料みたいなもので、その材料に一定の形を与えるのが形相だ」といったことしか書いてありません。ヘーゲルは過去の哲学を理解するときには、そこに自分の考えを強引に読み込む癖のある人ですから、彼の『哲学史講義』でアリストテレスの項を読み直してみなければなりません。これはかなりの仕事です。
廣松の物象化論については、あの難解な日本語を読むのは辛いので止めます。熊野純彦の解説を手掛かりにして岩波現代文庫『物象化論の構図』を最近、読み返したのですが、早くも根本的な疑問が出てきました。廣松は、木材で机を作った人が、自分で使うのではなく、商品として、値段を付けて売りに出した時、「その机を物象化した」あるいは「その机は物象化された」と言うのだと思います。実際は、反対ではないでしょうか。「机は観念化された」と言うのが正しいのではないでしょうか。
その机が出来るまでには、森の中に生きている樹木が伐採されて「原木」になり、それが売られて「材木」になり、更に机制作者に買われて「材料」になるのでしょう。これらの一つ一つの「意味の変化」もみな売買という行為に媒介されていますから、「観念化」があるのですが、普通は、最終消費者に買われる場合だけを考えているようです。
いずれにせよ、マルクスが商品を ein sinnlich uebersinnliches Ding
(感性的な姿をしているがその社会的な意味は超感性的な物、頭で考えなければ分からない物)と言ったのはこういう事だったと思います。ですから、この意味の変化は「物象化」ではなく、即ち、「感覚では理解できないものが感覚で理解出来る物に成る」と言うことではなく、その逆の変化だと思います。つまり「観念化」だと思います。
もう1度『資本論』の該当箇所を読んで又考えてみます。
こんな事を考えているのですが、それと平行して、「維新」の意味だとか、免疫力を高める乾布摩擦の意義だとか、台湾の民主主義だとか、幼児の言葉遣いとかを論じていますが、私見では、哲学者に取ってはこういう応用問題の方が重要なのだと思いますので、これを止める訳にはゆきません。
それに夫婦共に衰えてきていますので、家事にも時間がかかり、間違いが頻発しています。
まあ、これは言い訳として、ともかく、無理に頑張って勉強するのは止めようと思います。つまり、現在の力の八割くらいにして、間違っても120パーセントくらいの力でがんばるのは、今後一切止めようと思います。これの方が、結局は多くの仕事が出来ると思います。
どうぞ事情を理解して下さって、私のノソノソした仕事の仕方をお許し下さいますようお願いします。牧野紀之
2020年12月21日、81歳の誕生日の直前に