哲学の広場(牧野紀之)

私のWEB上での活動の表紙ないし目次です。

2009年08月18日、発行

2018年09月15日、改訂版

最新ニュース(2021年3月16日)

お知らせ

2021年03月16日 | 読者へ

  鶏鳴出版への注文の仕方を変更します。
 gooブログのコメント欄が牧野には使いにくいから、又、以下のメルアドに連絡をいただければ、返信が容易なため、です。

注文方法
➀ 送金する。
● ゆうちょ銀行から送金する場合
記号が「10180」、 
番号が「18895201」です。
 最初の記号が、鶏鳴出版の郵便振替口座の最初の記号とにているので注意して下さい。 
●ゆうちょ銀行以外の金融機関から振り込む場合は、以下の通り。
銀行名 ・ゆうちょ銀行
金融機関コード ・9900
店番・ 018
預金種目・ 普通(または貯蓄)
店名・ 〇一八 店(ゼロイチハチ店)
口座番号 1889520

➁ 注文す物の書名等と注文者の氏名と住所(とよければ電話番号)を次のメルアドに知らせる。
 メルアド── uhk87659 @ nifty.com

PS
長らくブログの更新をしていませんが、私たち夫婦の病気ないし眼病等のためです。
 近いうちにご説明をします。牧野紀之

 

 

 

最新ニュース(2020年12月21日)

ノソノソ宣言

2020年12月21日 | 読者へ
   ノソノソ宣言

 今までも「鈍足のマラソンランナー」でしたし、最近は更に遅く「牛歩のマラソンランナー」と成っていましたが、今後はそれを更に徹底するために「ノソノソ宣言」を出して、皆さんのご理解を得たいと思います。

 オンデマンド選書で2つの作品を出したので、例によって悪い癖が出て、『許萬元のヘーゲル研究』をサット片付けて、その後に『精神現象学の序言と序論』という題で適当な解説を付けて、「第2版」への批判ないし不満に応えよう、と考えて仕事に掛かりました。
 そうしたら、覿面に過労になり、体調を崩しました。仕事は行き詰まりました。
 その上、『許萬元のヘーゲル研究』については読者が、私の知らない論文を探してきてくださいました。これは「嬉しい悲鳴」でした。内容的には、大体中程度の問題しかありませんが、1つだけ大問題があります。

 それは許萬元が論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」の中で論じています「アリストテレスに由来する質料原理と形相原理」というものは、私が論文「実体と機能」でテーマとしている事柄と同じ問題を考えているのだと思いますが、それは更に廣松が「物象化」という言葉で捉えているのとも同対象ではないか、と気付いたことです。

 しかるに、私は許萬元はほとんどすべて、廣松はほんの少し読んでいますが、許萬元は私の物は密かに読んでいると思いますが、廣松は、多分、読んでいないと思います。では、廣松はと考えてみますと、我々の物は、多分、ぜんぜん読んでいないと思います。

 ついでですので、廣松と私との接点についてお話ししておきますと、それは2回あったと思います。最初は、私が本郷の哲学科に移った年です。60年安保闘争の真っ最中でした。ですから1960年の春のことです。何かの時に、当時、大学院生だった(と思います)廣松が研究室の中で我々の議論に加わったのだと思います。「君はマルクスのコレコレ(論文名は覚えていません)を知っているか!」と怒鳴りつけたのです。私は何もいえませんでした。友達は私に対して、「もの凄い論敵を持ったね」と言ってくれました。

 2回目は、日本哲学会の総会で、私が「ヘーゲルにおける意識の自己吟味の論理」という題で発表をした日だったと思います。ですから、1971年の5月だったと思います。その年はたまた総会が東京で開かれたのです。発表が終わって、許萬元さんと二人で控え室でくつろいでいる時に、廣松が横を通りかかりました。そして、立ち止まって、「こちらが許萬元さんで、こちらが牧野さんですね」と、我々の名前を知っていることを証明して、通り過ぎました。以上です。

 話を元に戻して、この同一の対象ないし問題についてのこの三人の理解の仕方はどう違うか、それと関連して用語の違いをどう整理して、正しい用語をどう提案するか、という問題が出てきます。これはかなりの問題です。しかし、ここまで来て逃げるわけには行きません。まず許萬元の言う「アリストテレスにおける質料と形相」が、本当にアリストテレスにあるのかが問題です。哲学辞典には「質料は材料みたいなもので、その材料に一定の形を与えるのが形相だ」といったことしか書いてありません。ヘーゲルは過去の哲学を理解するときには、そこに自分の考えを強引に読み込む癖のある人ですから、彼の『哲学史講義』でアリストテレスの項を読み直してみなければなりません。これはかなりの仕事です。

 廣松の物象化論については、あの難解な日本語を読むのは辛いので止めます。熊野純彦の解説を手掛かりにして岩波現代文庫『物象化論の構図』を最近、読み返したのですが、早くも根本的な疑問が出てきました。廣松は、木材で机を作った人が、自分で使うのではなく、商品として、値段を付けて売りに出した時、「その机を物象化した」あるいは「その机は物象化された」と言うのだと思います。実際は、反対ではないでしょうか。「机は観念化された」と言うのが正しいのではないでしょうか。

 その机が出来るまでには、森の中に生きている樹木が伐採されて「原木」になり、それが売られて「材木」になり、更に机制作者に買われて「材料」になるのでしょう。これらの一つ一つの「意味の変化」もみな売買という行為に媒介されていますから、「観念化」があるのですが、普通は、最終消費者に買われる場合だけを考えているようです。

 いずれにせよ、マルクスが商品を ein sinnlich uebersinnliches Ding (感性的な姿をしているがその社会的な意味は超感性的な物、頭で考えなければ分からない物)と言ったのはこういう事だったと思います。ですから、この意味の変化は「物象化」ではなく、即ち、「感覚では理解できないものが感覚で理解出来る物に成る」と言うことではなく、その逆の変化だと思います。つまり「観念化」だと思います。
 もう1度『資本論』の該当箇所を読んで又考えてみます。

 こんな事を考えているのですが、それと平行して、「維新」の意味だとか、免疫力を高める乾布摩擦の意義だとか、台湾の民主主義だとか、幼児の言葉遣いとかを論じていますが、私見では、哲学者に取ってはこういう応用問題の方が重要なのだと思いますので、これを止める訳にはゆきません。

 それに夫婦共に衰えてきていますので、家事にも時間がかかり、間違いが頻発しています。
 まあ、これは言い訳として、ともかく、無理に頑張って勉強するのは止めようと思います。つまり、現在の力の八割くらいにして、間違っても120パーセントくらいの力でがんばるのは、今後一切止めようと思います。これの方が、結局は多くの仕事が出来ると思います。

 どうぞ事情を理解して下さって、私のノソノソした仕事の仕方をお許し下さいますようお願いします。牧野紀之
 2020年12月21日、81歳の誕生日の直前に


最新ニュース(2020年09月24日)

幼児の使う言葉に間違いはない

 

2020年09月24日 | ヤ行
   
 最初に断っておきますが、「間違いはない」ということの意味は、認識論を知らない人には「間違い」と思える用語法でも、認識論的には十分に説明の付く「間違い」であり、その意味で「正しい間違い」だと言うことです。大人の間違いとは違う、と言ってもいいでしょう。
 さて、本論に入ります。
 長女が幼稚園に入ってすぐの頃でした。先生たちの名前が問題になっていた時、私が「じゃあ、園長先生の名前は何と言うの?」と聞いたら、長女は即座に「園長先生は園長先生じゃないの!」と、「決まってるじゃないの」と言わんばかりの口調で答えました。
 私は、それ以上何も聞きませんでしたが、心の中で、「幼児にとってはすべてが固有名詞なのだな」と理解しました。「お父さん」や「お母さん」はもちろんの事、幼稚園の「A子先生」も友達の「誰々ちゃん」も、みな同じ固有名詞なのです。いや、「固有名詞と普通名詞の区別の未分化の状態」と言った方が正確かもしれません。
 なぜこのような何十年も前の事を今更思い出したのかと言いますと、この八月に五歳と三ヶ月の孫(T子とします)がパパである息子と二人で五日間くらい帰省してくれて、面白い事に気付いたからです。
 二、三日たって少しなれた頃、T子ちゃんが私に聞くでもなく、話すでもなく、独り言を言うような調子で、しかし顔は私の方を向いて、「Tちゃん(自分の事)のおじいちゃん(私・牧野の事)のことを……(この辺はっきりしない)、パパは『お父さん』と言ってる」とつぶやいたのです。「おじいちゃんはおじいちゃんと言えばいいのに。何かおかしいなあ」と言わんばかりの顔に見えました。「一人の人に二つの名前があるのかな」とまでは、考えなかったでしょうが。
 私は、何が起きたのか、直ちに推察しましたが、何も言わず、もちろん説明などしませんでした。来年までには自然に氷解しているでしょう。しかし、ほとんどの子は意識することもなく、その段階を超えて行くのに、T子ちゃんが、これに気づき、しかも口に出した事は、素晴らしい事だったと思います。大進歩だったと思います。
 これを認識論的に説明すると、どうなるでしょうか。私見では、これが、ヘーゲルの論理学で考えると、「意識が存在論の段階から本質論の段階に入りかけた」ということだと思います。その本質論をヘーゲルは「仮象」から始めました。と言うことは、それをヘーゲルは「現象」とはしなかったということです。
 毛沢東の『実践論』がその典型ですが、自称マルクス主義者は、みな、「認識は現象の認識から始まる」としています。確かに、「存在(ヘーゲルがその論理学の中で『存在』とした物や事柄)」は人間に直接与えられている物事ですから、それ自体としては、つまり存在論的には現象と同じです。
 しかし、認識論的にはそうは言えません。その事態を「現象」として認識するには、現象とは異なる世界があって、その世界の「現象」なのだと理解できる段階まで進んでいなければなければなりません。それは本質との関係、一般的に言うならば、次元の違う他者との「関係」ですから、本質論の段階に入るのです。
 しかるに、その他者との関係も、単に「孤立している物ではなく、何かとの関係の中にあるのだ」と気付いただけの段階と、その事物自身の本質の現れなのだと気付く段階とでは大きな違いがあります。ヘーゲルが前者を仮象とし、後者を現象とした所以です。
 こういう正当な区別を認識論に持ち込んだのはヘーゲルだけだと思います。しかし、今回、許萬元の論文「ヘーゲルにおける体系構成の原理」を読んでみて、彼にはこの事態は分かっていなかったな」と判断しました。
 実際、幼児と一緒にいると、いろいろな事に気付きます。すでに幾つかの事は書いてありますが、はっきり言いますと、言語関係の専門家の皆さんがこういう点に関して自分の経験を書くことが少な過ぎると思います。かつて、ドイツ人女性と結婚してらした某教授から、「自分の子供も最初は gegeht などと言っていた」というお話を伺いました。ドイツ語を知っている人ならこの「間違い」が「正当な間違い」であることはすぐに分かります。私が遺憾とするのは、こういうドイツ人の幼児の「間違い」を、経験した実例だけでもいいですから、きちんと収集して、何かの文章にまとめてくれなかったことです。ドイツ語学の教授なのに、です。
 真理は生活の中に在るのだと思います。